「歴史でわかる科学入門」の「第11章 宇宙の中心はどこ?」まとめ

天動説から地動説へ。

「第11章 宇宙の中心はどこ?」の要約

・アリストテレスは地球が宇宙の中心にあると考えた。その考えを引き継いだプトレマイオスは、天体の位置を観測して天動説を完成させた。

・天動説では、地球が宇宙の中心にあり、天体はその周りを完全な円を描いて回っているとされた。しかし実際の天体の動きはその理論に当てはまらないことが多々あった。そのような状況の中で、勇敢にも地動説を唱えたのがコペルニクス。

1.コペルニクス(1473-1543)について

・ポーランド人の聖職者。イタリアに留学し、帰国後に天体の研究を続けた。まだ望遠鏡のない時代だった。

・その結果、「地球は、他の惑星と同じく太陽の周りを回っている」という結論にいたった。天動説では説明できない矛盾点が、この地動説を適用するとうまく説明できると確信した。

・その後30年間にわたり、太陽が宇宙の中心であるという自説の完成に取り組んだ。ただしこの研究結果が人々にショックを与えるということがわかっていたため、研究は密かにおこなった。

・やがて年老いた彼は自説を発表することを決断し、1542年に大著「天球の回転について」の執筆を終える。そしてその出版を聖職者の友人に託し、1543年に出版された。同年彼は亡くなった。出版を託された友人は、この説を危険だと考え、「コペルニクスの考えは本当は正しくない」という趣旨の序文を付け加えた。この本は多くの人に読まれ、その中で重要な二人の天文学者がさらに研究を進めた。その二人とはティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラー。

2.ティコ・ブラーエ(1546-1601)について

・デンマークの貴族。1560年の日食を観測して以来、天文の研究に魅せられた。

・デンマークの沖にある島に天文台を建設し、当時の最先端の道具を置いた(望遠鏡はまだない)。

・1577年、彗星の軌道を観測。天体が天球に固定されていない証拠だった。

・1597年にプラハに新たに天文台を建て、その3年後にヨハネス・ケプラーを助手にする。

・1601年に亡くなり、全ての記録と原稿がケプラーに遺された。

3. ヨハネス・ケプラー(1571-1630)について

・熱心なプロテスタントだった。妻と娘は亡くなり、母親は魔女裁判にかけられた。

・彼の著作には重要な3つの概念が記されている(=「ケプラーの法則」)。

・惑星は太陽に近づくにつれ速く、遠ざかるにつれ遅く動く(ケプラーの第2法則)。この法則から、惑星は楕円を描いて動くという法則が導き出された(ケプラーの第1法則)。

・惑星の公転周期と、惑星と太陽との平均距離のあいだには特別な関係が存在する(ケプラーの第3法則)。この法則により、天文学者たちは太陽から惑星までの距離を計算することができるようになった。

第11章まとめと感想

・古代の学者が唱えた天動説がその後長らく信じられたが、現実の天体の観察結果がその説に当てはまらないということに人々が気づき始める。地動説を用いればその矛盾が解決することに気づき、体系的に理論をまとめたのがコペルニクス。しかし彼の時代ではまだ、その説を公表するのははばかられる状況だった。

・その後に天文学研究に取り組んだブラーエとケプラーによって、実際の観察にもとづいた天文学がさらに発展し、地動説の確かさを裏付けることになる。

・ケプラーが重要な法則を発表した頃、遠くを見ることができる科学機器が発明された。

*感想

・最後の「遠くを見ることができる科学機器」とは望遠鏡のこと。それを最大限に活用をした科学者がガリレオ・ガリレイ

これが次の第12章のテーマ。わくわくする。

・ケプラーは宗教改革のさなかで波乱万丈の人生を送ったという。ケプラーとブラーエとコペルニクス、3人ともガリレオほど一般的には有名ではないと思うが、彼らの人生にも非常に興味を持った。

参考文献 「歴史でわかる科学入門」(ウィリアム・F・バイナム著 藤井美佐子訳 太田出版)

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