フェルメールの「天文学者」と望遠鏡の歴史とガリレオ・ガリレイ

17世紀オランダの画家フェルメールが描いた「天文学者」。

当時のオランダ、あるいはヨーロッパで天文学が大きく発展するきっかけとなった、望遠鏡の発明の歴史とガリレオ・ガリレイの関係について探ります。

フェルメール「天文学者」1668年頃

望遠鏡の歴史

この絵のモデルが机に広げている本は、オランダの天文学者アドリアーンスゾーン・メチウスの「星の研究と観察 」。

メチウスの弟は、凹レンズと凸レンズを組み合わせて望遠鏡を作りました。1608年のことです。

実は望遠鏡が作られたという明確な記録はこの年から始まります。

メチウスは10月に望遠鏡の特許を申請しました。

ところがオランダの眼鏡職人リッペルスハイもまた、そのほんの2、3週間前に特許を申請していたのです。

ほぼ同時期の申請だったため、どちらも却下されてしまいましたが、オランダ政府はリッペルスハイと契約して軍用望遠鏡を作らせました。

望遠鏡の発明もまた、17世紀のオランダ人によるものだったのです。

1608年の終わりには、オランダ独立戦争の講和会議がオランダで開かれます。

この時にリッペルスハイが作った小型望遠鏡が披露されました。

戦争をする国々にとって望遠鏡はさぞ魅力的なものだったでしょう。

各国の外交官たちが和平の知らせとともにこの情報を母国に持ち帰ると、うわさはヨーロッパ中にすぐに広まりました。

「オランダの望遠鏡」1624年

ガリレオ・ガリレイと望遠鏡

1609年の夏、オランダの小型望遠鏡のニュースはイタリアのパドヴァ大学教授であったガリレオ・ガリレイ(1564-1642)のもとにも届きます。

1605-07年頃のガリレオ 41-43歳頃

望遠鏡の構造はいたってシンプルで、細い筒の両端に凹レンズと凸レンズをはめ込んだもので、倍率は3倍程度でした。

自信家で成功願望の強い彼は、それなら自分でも作れるだろうと考えました。

ガリレオは当時のパトロンであったヴェネツィア総督に自作の望遠鏡をプレゼントすることにしたのですが、この時すでに総督にはあるオランダ人から望遠鏡が贈られることが決まっていました。

このことを知ったガリレオは持ち前の負けず嫌いを発揮し、24時間後になんと8倍の望遠鏡を作り上げてしまいました。

彼はさらに改良を続け、1609年の終わりには20倍にまで倍率をあげることができました。

望遠鏡での天体観察から地動説へ

ガリレオは自分で作った望遠鏡を天空に向けるようになります。

1610年、彼は木星の衛星を発見しました。

木星の周りを回る星があるということは、地球が全ての星の中心にあるという天動説を覆すことになります。

その後もガリレオは観察を続け、発見したことを本にして出版しました。

それが異端とみなされ、宗教裁判で有罪判決を受けたことは有名な事実です。

そしてその時のガリレオの言葉「それでも地球は動いている」も^^

ガリレオは終身刑となり、晩年はひっそりと過ごしました。

1636年のガリレオ 72歳

地動説はその後もローマから離れたところで研究が進み、17世紀のニュートンが万有引力を発見して、正しいことが証明されました。

ニュートンの万有引力の発見は1665年、まさにフェルメールの「天文学者」(1668年頃)、「地理学者」(1669年)とわずか数年の違いです。

まとめ

ガリレオの天体観測による地動説発表とその後の宗教裁判は、科学史というより歴史上に残る大きなできごとですが、そのきっかけとなったのがオランダの技術者が作った、二つのレンズを組み合わせたシンプルな望遠鏡だったのです。

また、オランダはプロテスタントの国だったので、学者たちはガリレオよりもっと自由に研究できたことでしょう。

フェルメールの「天文学者」「地理学者」は、そうした自国の研究の高度さ、素晴らしさをアピールする意図もあったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Follow me!